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間違った場所に咲いた綺麗な花というより、メダカが群生する小川に放たれ、巨大化した外来魚と言うべきか?

小川を遊泳する巨大なる魚影は、一つの視点から見れば、強く美しく、その水域に君臨する覇者の雄姿と言える。

しかし、水棲環境を外側から覗き込む、別なる大きな視座から見れば、それは、環境破壊を示す兆候でしかない。

視覚には、正常なる時代の流れを識別する蓄積された歴史認識的視点とその潮流から収穫を得ようとする局在性の漁場的視点が存在する。

その異なる時間軸を持つ視点の交錯こそが、現代世界の対立の根である。
立ち止まるべき問題提起の前で、ブレーキをかけることなく全力で素通りし、自分を成長させる未知なる学習機会を放棄し、同じ行為の反復から生じる結果を加算し続ける。

効率と速さを追求し、反復行為を繰り返す商業主義的思考と未知なる領域へと足を踏み入れ、打算とは無関係に真理の一端を追いかけ、世界を覆う朧げなる作用の全貌を掴み取ろうとする学術的探究心は、火と水のように相容れない。

尻に火を焚きつけられたように忙しく動き回る現代社会の人々の前で、真理は唯一、時の喪失と共に、存在の不在、無という形で、その人に寄り添う。
自己損益の前で高速に動き、嘲笑の前で立ち止まる者と言うべきか?

異なる時間軸を生きている者というより、もはや、別種の、別の生物。

彼らに必要なのは、己の皮の下に流れるものを映し出す鏡。

社会の底辺で、ドブ川のドブ水をすすり飲み、勝者の排泄物を喰らい生きている者に、それは愚問か?

見ているのは、水面に映し出された光の乱反射ではなく、その潮流でもなく、産業排水が垂れ流しにされた経済水域が生態環境として生み出した、その最終生成物。

時代を反映した全ての生成物の集合体。地球そのものの現在の姿を見ている。
相手の99%の正答を無視し、1%のミスを探し出そうとする者は、その過程で生じる、
自分の99%の誤答を無視し、1%の正答を誇示しようとする。

物事の正否について考える時、正答率という概念を念頭に置いていない者。

彼らは、真に正しい事について考えているのではなく、相手の生命が奪われるまで銃撃を繰り返す行為を自身の勝利と考える銃乱射犯である。

彼らの脳内において、何が正しいかという論理的思考の代わりに居座っているもの。それこそが、この混沌たる世界の戦犯である。

真の戦犯は、人間の頭蓋骨の中に存在する。
こいつ、マジ、ムカつく。

死ねばいいのに。

その動物的感情の肉体的発露を禁じた社会の、

極大的に回りくどい、

その一点において、人間的知能をフル活用した、

競争社会で、彼らが真に学んだ数少ない学習事項と呼び得る、

人間社会の負の動態に対する局部的特性理解に基づく、

贅沢かつ、クリーンな、

肥大化した自我のみが成し得る、

TVゲームのコントローラーを操作し、敵を殺すように簡便な、

それでいて、用意周到な理論によって為される、

TVゲームと娯楽番組の構成を折衷した、スペクタクル報復劇場。
肩書がある、地位がある、経済力がある、彼らは、この社会の一定の成功者なのだろう。
歴史的偉人達のように後世に名を残すことはないが。

小さき世界の成功者は、その小世界を全世界に見立て、自分が世界の覇者であるかのように振舞う。
故に彼らは、自己の経済水域から優れた才能を持つ者が現れても、その才能を迎合することなく、自己利益の損失に繋がる障害物と見做し、己のテリトリーから排除し、遺棄してしまう。

だからこそ新しき時代の才能は、古き時代に抗い、アスファルトの地面を突き破り成長する樹木のように、世界に姿を現す。
大衆達は、TVを見る。

政治社会ニュースではなく、ドロドロの病院ドラマを
実はあいつが犯人という、2時間サスペンスを
人気タレントが、一瞬にして凋落する芸能ニュースを

それらの視聴メディアを通じて変性された大衆の精神的欲求は、各々のドラマの象徴的な要素を抽出し、接合し、現実の世界に投影されていく。

提供された娯楽番組だけでは飽き足らず、現実上の似姿を持つ他者を媒介にし、想像を掻き立てる噂や憶測という形を取り、視聴者達は、娯楽番組と同じ構造の二次創作物を新たに作り出し、それらは、社会の中で受容される。
人々は、この社会の中で、異常なまでに攻撃的になっている。

ありふれたコンビニエンスストア一つでさえ、
そこには、熾烈な出店合戦が存在する。

同業者同士仲良くやっていきましょう、そういう人間が生き残れる社会ではないのだ。

子供達が共存を強いられる学校もまた、
虐められる者に手を差し伸べるのではなく、
排他的グループの一員となり、外側から冷笑を浮かべて、自分の安全を確保することが、
明日は我が身を回避する子供達の生存戦略なのだ。

攻撃的な群衆が、攻撃的な為政者を迎合する。

それは、時代の必然である。
自己進行と社会的安寧のエネルギー的衝突、

回路走行電力と電気抵抗、

そこから生じる熱量。
言葉は届かない。

あらかじめ、バイアスがかかっていて、人の主張を間違ったものとして覆す要素だけを探し出そうとしている。まさに、通り道を塞ぐ障害物を蹴り飛ばすように。

少しでも素早く、相手の急所に一発食らわせ、その場所から立ち去る。
それが、彼らの力学なのだ。

少しでも早く答えを出し、少しでも早く、目的地へ到達する。
間違っているとは言わない。なぜなら、それが、この社会の正しい答えだからだ。

クラッシュし、立ち往生した時、目的地へ到達しても、幸福足りえなかった時、
人は初めて、別の答えを受け入れる。
人生において、最大の過ちを犯す時、

人は、風のように、空気のように、
先を急ぎ、エレベーターのボタンを押すように、
過ちを犯す。

うら若き日々に、恋愛をすることなく、白髪の老婆となった女性が、
若かりし頃の自分の姿を回想し、過去を後悔するように、

人が人生の過ちに気付くためには、

プラットホームの人ごみのうねりの中、
独り、立ち止まり、彼らを眺め続けるような、
別のベクトルの「時の流れ」を必要とする。

時の流れそのものに身を任せている時、
人は、その「時代の潮流」の観察者たることはできないのだ。
未知なるものへの憧憬こそが、生への糧
格好いい、インテリジェンスなフレーズを組み合わせ、どこかで聞いたような哲学者だか、文学者の名言風の言葉をひねり出す。

おそらく彼は、何度でも何度でも、言葉を変え、同じような名言自動生成を披露できるのだろう。

中身がない。

その薄っぺらいが、煌びやかでハイセンスな言葉のコーディネートの下にあるものを覗き込む。

貧相な顔、貧相な体をした、裸のまま、俯いた少年の姿が見える。

彼にとって、言葉は、学問は、自分を輝かせ、価値あるものに見せる、ファッションだった。

間違った場所に咲いた、綺麗な花のような。
芸術、言論における影響とは、一つのレンズフィルターのようなものである。

影響を受けた対象の力を借り、特定の色彩や被写体をより際立たせることが可能であったとしても、描写されるべき、眼前に映る風景の解像度は、見る者の視力による。

だが一方、剽窃行為は、限りなく黒に近いグレーだ。

そこに視点と呼ぶべき、透明なる視覚、濁りなき心の作用は存在せず、

盗み取ったアイデア群の無秩序的接合、自身の創作物として偽装するための表層的塗装、

それらの行為から立ち現れるのは、実存しない、異形なる物のレプリカに過ぎない。
人と人との関係から生じる問題に、学校も企業も家庭も社会も違いはない。

日々、報道されている事件は、小さな綻びの累積から生じる大きな亀裂である。

責任者という言葉の真の意味は、問題が起きた場合の処刑であり、その結果として、人々は、問題を解決するのではなく、隠蔽することに心血を注いだ。自分が処刑されないように。

その場所、その者だけが気づく、問題の芽が芽吹き、放置され、大事件へと発展する。

社会問題の本質は、処刑される者ではなく、何者かを処刑することで問題が解決されたと考える社会の冷酷なる力学にある。

FH

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