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1930年代に入ると、佐藤次郎が登場する。佐藤は4大大会でシングルスでは通算5度もベスト4に進出し、ダブルスでは布井良助とペアで準優勝を経験し、混合ダブルスにおいても準優勝に輝くなど、日本の男子テニス選手として空前絶後の世界的な活躍を残し、当時世界ランキング3位にまで登り詰める。
日本チームは2勝3敗でフランスに敗れたが、原田のシングルス2勝は大きな反響を呼んだ。1926年、原田武一は「全米テニスランキング」でビル・チルデン、マニュエル・アロンソに次ぐ第3位にランクされ、世界ランキングでも7位に躍進する。
原田はインターゾーン決勝のフランス戦で、第2試合シングルスでルネ・ラコステを 6-4, 4-6, 6-3, 9-7 で破り、第5試合シングルスでもアンリ・コシェに 6-1, 6-3, 0-6, 6-4 で勝ち、この活躍で世界的に有名な選手となった。
当時のテニス界は、フランスの「四銃士」と呼ばれた4人の強豪選手たちが世界を席巻し始めていた。
原田はとりわけ、デビスカップで傑出した成績を挙げることとなる。特に1926年のデビスカップでは、日本テニス史に残る名勝負が繰り広げられた。日本は「アメリカン・ゾーン」決勝でキューバに5戦全勝で勝ち、「インターゾーン」の決勝でフランスと対戦する。
長戸夕奈です。さて、日本テニス界の先駆者であった熊谷一弥と清水善造の後に続き、大正期から昭和期へと移行した1920年代には原田武一が日本を代表する選手として活躍しました。
この軟式テニスで育った熊谷一弥、清水善造、原田武一、佐藤次郎、山岸二郎ら多数の名選手がテニスに転向し、欧州、米国に転戦し始める。彼らはその独特のテニス(軟式テニスで培われたドライブ)で活躍し、1920年代前半から1930年代後半まで続いた日本テニス黄金時代を築き上げることとなる。
これがやがて軟式テニスと呼ばれる様になり、体操伝習所の教師であった坪井玄道がソフトテニスの普及に尽力し、伝習所の卒業生が教師となって各地の学校に赴任し伝えることにより今日に至るまで独自の発展を遂げた。
ソフトテニスの発祥については、明治期の日本で調達が困難であったローンテニス用具を安価な代用品で賄ったのが起源とされている。
翌1921年、男子テニス国別対抗戦・デビスカップの日本チームの活躍は目覚ましく、準優勝に輝いている。
またその年に開催された第7回オリンピックにおいて熊谷がシングルスで銀メダルを獲得し、ダブルスでも熊谷と柏尾誠一郎のペアが銀メダルを獲得し、オリンピックで初めての日本のメダルとなった。
1918年、熊谷一弥が全米選手権において、日本人テニス選手として史上初のベスト4進出を果たし、1920年には清水善造のウィンブルドン選手権「チャレンジ・ラウンド」で決勝(現在では準決勝に相当)に進出し、世界1位に君臨していたビル・チルデンに肉薄した。
日本へのローンテニスの伝播については諸説あり、1878年にアメリカのリーランドが文部省の体操伝習所で紹介したという説がある。
四大大会は、全豪オープン(1月)、全仏オープン(5月 - 6月)、ウィンブルドン(6月 - 7月)、全米オープン(8月 - 9月)である。
四大大会を1年間ですべて優勝することを年間グランドスラムという。これを夏季オリンピックの開催年(オリンピアード)に達成し、かつオリンピックの金メダルを獲得することを「ゴールデン・スラム」という(1988年に当時19歳のシュテフィ・グラフが達成し、この言葉が作られた)

長戸夕奈

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北海道は札幌市在住のテニス大好き長戸夕奈です。テニスに関する情報(ルール説明・歴史案内・ニュース等)について沢山ご紹介できればと思います。フォローして下さる方も大歓迎です。宜しくお願い致します。
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