FC2ミニブログPIYO

【重要】お知らせ

平素よりFC2ミニブログPIYOをご利用いただき、ありがとうございます。


この度、「FC2ミニブログPIYO」は 日本時間 2025年06月02日(月) 午前10時 をもって、サービス終了とさせていただくこととなりました。

これまでのご愛顧に対し、深く感謝するとともに心よりお礼申しあげます。


ご利用のお客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解いただきますようお願い申し上げます。

  • 2025.2
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
しかし、長年マレー半島において搾取を行い、残虐の限りをつくした宗主国のイギリスに対する地元住民の反感は強く、その後も独立運動が続くことになった。また、第二次世界大戦によって大きなダメージを受けたイギリスには、本国から遠く離れたマレー半島における独立運動を抑え込む余力はもう残っていない上、諸外国からの植民地支配に対する反感も強く、いよいよ植民地支配を放棄せざるを得ない状況に追い込まれた。
1945年8月に、日本の敗戦により第二次世界大戦が終結し日本軍が撤退したものの、日本と入れ替わり戻ってきたイギリスによる植民地支配は継続することとなり、長年の念願であった独立への道は再び閉ざされてしまうこととなった。
田中佑輝のシンガポール歴史案内です。本日はイギリスによる植民地支配の回復と放棄について紹介していきます。
しかし、同年9月にイタリアが連合国に対して降伏したため、シンガポールに派遣されたイタリア海軍の潜水艦「コマンダンテ・カッペリーニ」「ルイジ・トレッリ」がドイツ海軍に接収された。さらに1945年5月にドイツが降伏した後は大日本帝国海軍に接収され「伊号第五〇三潜水艦」「伊号第五〇四潜水艦」として終戦を迎えている。
またフランスのボルドー軍港にドイツ海軍との協同作戦基地を保持し、1943年3月にドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだイタリア海軍が、日本が占領下に置いたシンガポールに潜水艦の基地を作る許可を取り付け、工作船と海防艦を送り込んだ。
なお日本軍は、シンガポールと同じく長年イギリスの植民地下にあったイギリス領インド帝国出身の投降したイギリス軍兵士の中で、インドの独立を志す者を組織し「インド国民軍」を創設した。その後独立運動家のラース・ビハーリー・ボースに組織を委譲し、その後インド国民軍はボースの同志で、1943年10月に同地に設立された自由インド仮政府首班のスバス・チャンドラ・ボースの指揮下で、インドやビルマなどでイギリス軍と戦った。
この事件は戦後の1961年12月に、イーストコーストの工事現場から白骨が続々と発掘されたことにより、日本に血債の償い(血債は中国語で『人民を殺害した罪、血の負債』といった意味)を求める集会が数万人の市民を集めて開かれる事態に発展し、1967年には「血債の塔」が完成した。少なくとも数千人から2万人の中国系ゲリラとその支援者とされた中国系住民が虐殺された。
その後イギリスや中華民国などの連合国軍の支援を受けた中国系ゲリラにより、散発的なゲリラ活動が行われたことを受け、日本軍は山下奉文司令官名の「布告」を発行し、反日ゲリラやその支援者と目された中国系住民を指定地へ集合させ、氏名を英語で書いた者を「知識人」、「抗日」といった基準で選別し、対象者をトラックで海岸などに輸送し殺害した(シンガポール華僑虐殺事件)。
その後は日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」と改名された。なお、昭南島とは「昭和の時代に得た南の島」の意とされている。軍政下の行政組織として「昭南特別市」が設置され、初代市長には、日本人内務官僚の大達茂雄が任命された。
田中佑輝のシンガポール歴史案内|日本による占領と軍政

イギリスは、シンガポールを東南アジアにおける植民地拠点として、15万人を超えるイギリス海軍および陸軍部隊を駐留させ要塞化していた。このため1941年12月8日に太平洋戦争が始まると、シンガポールのイギリス極東軍は山下奉文中将が率いる日本陸軍による攻撃を受けた。この攻撃は1942年2月7日に開始され、同地を守るイギリス極東軍司令官のアーサー・パーシバル中将が無条件降伏した2月15日に終わった(シンガポールの戦い)。
しかし統治者であるイギリスは、イギリスからの独立運動を行おうとする在来住民に対して投獄、拷問、さらに処刑を行うなど徹底的にこれを取り締まり、自治や言論の権利を奪われ、3級市民として扱われる悲惨な隷属状態が続くこととなった。
シンガポールを含むマレー半島では、イギリスの植民地支配下において、これらのインドや中国からの労働力を背景に経済的には発展が進んだものの、マレー人を中心とした在来住民や移民労働者による自治が認められない隷属状況が続き、20世紀に入った後には、一部知識層の間において独立の機運が高まることとなった。
この時期に、すず鉱山、天然ゴムなどのプランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商、行政官吏として、中国(主に福建省や広東省、潮州、海南島などの中国南部)、インド(主に南インドのタミル語圏)、現在のインドネシアなどから多くの移民がマレー半島、シンガポールへ渡来し、現在の多民族国家の起源となった。なお、1873年に日本の岩倉使節団がシンガポールに寄港しており、当時の様子が「米欧回覧実記」に記されている。
イギリスによる植民地となった後は、同じくイギリスの植民地であるインドやオーストラリア、中国大陸などとの間でのアヘンや茶などの東西交易、三角貿易の中継地点としての役割にとどまらず、背後に存在する同じくヨーロッパ諸国の植民地下にあったマレー半島のマラヤ連邦州などで産出された天然ゴムやすずの積み出し港としても発展する。
無関税の自由港政策を推し進めたこともあり、5年の間にシンガポールの人口は1万人を突破し、急速に発展していった。既に所持していた港町ペナンと、1824年に新たに獲得したマラッカとともに1826年にシンガポールは海峡植民地に組み入れられ、1832年にその首都と定められた。

田中佑輝のシンガポール歴史情報

プロフィール画像を表示
シンガポールがたどってきたこれまでの歴史について、田中佑輝がご紹介いたします。
rss

PIYOトモ一覧

現在PIYOトモはいません

ぴよぴよワード